全力退職青年

転職先も決めぬまま令和6年末で前職を退職し、無期限かつ有限なモラトリアムへと突入した32歳既婚男性が、その後の人生を模索するためにあがき、楽しみ、苦しみ、悩む様をリアルタイムに綴っていく記録です。

panpanya「商店街のあゆみ」を読んで。~住み慣れた家の近所にもひそかに非日常の実在を願う心~

手を付ける心が出来上がらず、ずっと積んでいた、敬愛するpanpanya先生の新作、「商店街のあゆみ」を今朝やっと読んだ。

しゅばらしかった。

 

panpanyaにであったのは、まだ就活生だったおよそ10年前のこと。

当時はまだ先生の名前を知らなかったものの、再販版の「足摺り水族館」を書店で見かけたのである。

その表紙のビジュアルもさることながら、私はその装丁(今見ても素晴らしい紙の選定と、天アンカットだと思う)に惚れ込んで、いわゆるジャケ買いをした。

 

画像は恐縮ながら拾いである。

ビニルに包まれた装丁。紙も柔らかい藁半紙のような感じでもっているだけで幸せになる。

 

私の惚れた天アンカット

 

 

氏の感性は、どうも私の本質と波長が合うらしく、現代社会で失われていく本来の自分を年に1回呼び覚ませてくれるのである。

 

そういうわけで、panpanyaの作品に触れるたび、この5年位で、自分が急速に失ってしまった時間の流れを取り戻せるような気持ちになり、スマートフォンをおいて散歩に出ようと思ったりする。

 

自分も昔は、panpanya氏のように、まるで異世界探訪でもするかのような新鮮な気持ちで周囲の景色を見ていたような気がする。
町は生きていたし、見慣れた建物であっても、些細な変化は常にあり、季節ごとに空気は異なり、その日その時々に応じて道からは違う声がしていたと思う。

時間はもっとゆっくり流れ、現実と空想は割と緩やかにつながっていたことを思い出す。

 

「ここはどうでしょうの旅」は、最近流行ったジオゲッサーというゲームに似ているが、本作のほうが早い。
この旅を見ていると、ありふれた生活風景の中に、どれほどの情報と発見、そして空想の余地があるかということを思い知らされ、同時にそれらの全てを、価値のないものとして捨ててきているかがわかる。

 

まぁ、実際にはなんの実利もないことは確かなのだが、ではどうして、そういった小さな発見に憧れを抱いてしまうのだろう。

 

「うるう町」は、とてもおもしろい発想だった。
確かに、ある限定的な場合にのみ存在するものを「うるう◯◯」とするような言葉遊びは、たまに見かけるとは思うものの、それを土地でやるところが、不変にして変容し、常に未知が身近に存在する生きた町を描き続けるpanpanyaらしい。
自分も一時期仕事で登記簿を随分と扱っていたが、あの記載が間違っているとは考えもしなかった。

 

市井では役所のことを悪く言うことが多いが、存外、行政の仕事については全幅の信頼をおいているものだなと感じた。

 

しかし、何年も住んだ家の近所を歩いていても、ふと見た横道をまだ一度も歩いたことがない、ということはよくある。
そんな時、用もなくただ遠回りになるその道に足を踏み入れたいという逆らい難い欲求に襲われる。

 

実際、歩いてみればなんともない事もあれば、その道だけではなく、その区画ごと歩いたことがなかったりもして、まるで異郷に迷い込んだような気分になることもある。

 

私の家の近くには小さな山があり、その山を挟んで東西で、町の出で立ちから作られた時代、住んでいる人の所得水準もまるで違う。山の向こうは古く、そして裕福な地域となっていて、建物も一般的な市街地では見ることができないようなものが乱立している。商店の雰囲気も、ひなびているか、とても粋で小洒落ているかのどちらかである。当然山の向こうは車前提の作りをしていて世界が広い。

 

ところで山というのは、市街地にある小さなものであるとしても、町という人の香りをかき消す自然だ。
山の中に這入った瞬間に、その直前にいた町の記憶は中断されて、一時停止のようになる。
そして自然を超えて山を降りると、どうやら脳は、直前の町の続きに降り立つと思い込むらしい。

 

しかし、前述のとおり、全く構造の違う町が広がっているものだから、まるで別世界に迷い込んだかのような、不思議で、少し怖いけれど高揚感のある、ふわふわとした気持ちになる。

 

道と未知は読みが似ているが、おそらくハレとケとでも言おうか、私達は、自分の住む日常の町のどこかに、未知なる非日常も存在していてほしいと、ささやかに願っているのだと思う。

 

だから、どうしてか知らない道に心惹かれるし、なんの実利もないにしても、住処の近所にまだ自分が知らない物を見つけると、理由の説明できない幸福を覚えるのだろうと思う。